1932年5月15日,犬養毅が5・15事件で暗殺されたときに交わされたという会話だ。
話せばわかるということの意味は,二通り考えられる。
ひとつは,話せば言葉足らずで理解できなかった話の内容が理解できるということ。理の問題。
もうひとつは,話せば互いの気持ちがはっきりする。情の問題。
そしてこれに対する答えである問答無用も両方の意味に対して答えている。
改めて話さなくても充分理解できている。
そして,話さなくても自分の気持ちははっきりしている。
情と理の二つは,元を辿ると一つになるのかならないのか。こういった議論は,一元説,二元説という説がでてくる。そして,かならず折衷説というのもでてくる。
一元説,二元説,折衷説。
この説の争いは,どの世界でもあるのではないか。男と女は元を辿ればどちらなのか,というのもそうだろう。
分岐点。多くの人間は,ここにこだわりがあるらしい。
しかしどうなんだろう。
皆で歩いてきた道に分岐点があったかなかったかを振り返っても仕方ない。
そもそも道のない野原には分岐点なんて存在しない。
自分達で道を作っておきながら,後になって分岐点のあるなしで議論するなんてなんとも不思議だ。
この先には道がある。なんていうのは,嘘ばかりで,そんな風に見えているだけ。
野原に道があると信じて,一歩ずつ足を踏み出しているに過ぎないような気がする。
少なくとも到達点がはっきりしている人にとっては。
到達点がはっきりしている人にとっては,現在地,目的地,方角,の三つがわかれば,道なんてわからなくてもたどり着ける。
月に向かって歩くなんてことをしない限り。
ひょっとしたら,どこかに透明な階段が隠れていやしないだろうか。エジプトのピラミッドの先とか。
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