2010/03/03

桃の節句

今日は桃の節句である。ひな祭り。男としては特にすることがない日なのだが,さり気なく金平糖を買ってしまいそうだった。

それはさておき,今日は歩いた。
いつも自転車で走っている道を歩いてみた。
妙に詩碑が多くある。群馬では萩原朔太郎が地元民だったこともあり,朔太郎の碑や,その他詩人の碑も沢山置いている。知ってはいたのだが,読んでみようと思ったのは2度目だった。

2度目。その意味するところは,碑の存在を知ってすぐに興味を抱き見てみたところたいしていい詩ではなかったのでそのまま興味を失って数カ月ということである。

2度目のチャンスはこのようなふとしたきっかけでやってくるのだ。

そこにあったのは,いい詩だった。一発でタイトル,作者,詩の内容,すべてを覚えてしまえると錯覚したほどだ。だからこそここで紹介できなくなってしまった。つまり,もうわすれてしまったのだ。それほどに最近感動から解き放たれるのが早い。

これは困ったことだ。

どうしてこのようなことになるのか。その分析をすると,また誰も考えもしないであろう明後日な仮説を立てることになってしまうだろう。だが,そういって我慢できるほどいい子でもないのだ。

感動を簡単に自分の言葉や経験に置き換えてしまおうとするからに違いない。新しい感動を,過去のものとして捉えてしまう。そうなると,どこかにあった過去の感動の中にまぎれてしまって思い出せなくなる。そして,すべて自分が主人公になって,その感動を与えたもの自身の存在を忘れていってしまう。

そんなことなのではないだろうか。
ひょっとしたらボケが始まってるとか,あまりに本物に出会うことが少なくなってたいしてよくないものにまで感動するようになったとか,他の可能性もありそうだ。

はあ。いつまでも本題に入れない。いやしかし神は細部に宿るのだ。本題はつまらない。その他の部分が面白い。世の中そんなものだ。

その詩の内容というのは,あたし平凡になりました。うそです最初から平凡でした。平凡だから,平凡じゃないかもしれないと強がってるだけでした。そんな平凡な女でした。

みたいなものだったのだ。

平凡だから平凡じゃないと言い張るなんてあたりは,ギクッとするところがあったりして,最初からそうだったんだよと告白するあたりも平凡な発想でこれもまた平凡な心を表しているのだ。全部仕組まれてる。何となくしっくりきてしまった俺まで平凡だといわれているようで,実に困った。うそです最初から平凡でした。すみません。という風に,いつの間にか取り込まれて雁字搦めになり,詩碑の前で身動きが取れなくなった。

こういうときは声をだすといい。

「あんぽんたん」

自ら発したこの一言で私は解き放たれ,再び歩き始めたのだ。

するとまた詩碑がある。

どれどれと読んでみると,今度はつまらない。ところが不思議なことにこの詩の名前は覚えているのだ。「心理」。どうなっているのだ。内容は当然覚えていない。

あまりにひどい覚え方なので,ショックのあまり,詩碑を色々調べてみた。すると,あるではないか町田康の詩碑が。

今度はこれを見つけに旅にでます。

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